いせログ

書きたいことを書きたいままに。

ねえ。

ぼくには名前がある。

 

森越一成

 

とても気に入っている。「一つのことを成す」そんな想いがこもっているらしい。森越と呼ぶ人がいたり、いっせいと呼ぶ人がいたり、いっちゃんと呼ぶ人がいたり、はたまた団体の影響でぶらんちなんて呼ぶ人がいたりする。

 

 

名前って不思議だ。

いつも苗字で呼んでいる人を下の名前で呼ぼうとするとちょっとドキドキする。慣れてしまえばなんてことないんだけど。いつも呼ばれていない名前で呼ばれるとどきっとする。

 

 

お父さんのことを初めて親父と呼ぶ瞬間。そこにはいつも名前を呼ぶときにはない感情の振れ幅がある。

 

 

ものが先か。言葉が先か。

こんなテーマの文章を誰しも現代文の文章で読んだことがあると思う。

 

たとえば「りんご」というものがあったとき、物体があるから名前をつけるんだけど、ほかの「みかん」とか「なし」と違うというのを認識できるのは、名前があるから。

 

外国では虹を6色と言う人たちがいる。それは「藍色」という言葉がないからだ。言葉がないから青色と藍色は同じものだと認識する。白と黒という言葉しかなかったらぼくたちの世界はいつまでもモノクロのままだったのかな。

 

 

 Christmas walk

 


 これはとても面白くて、

ぼくという人間はたとえ名前がなくても実在しているのだけど、でもいまのような人間になっていなかったと思う。一成という名前をつけられて、ぼくは一成っぽく生きてきた。一成にフィットするように生きてきた。

 

それはもちろん意識などしてこなかったのだけど、いろんな人から名前を呼ばれるたびに一成を無意識的に意識して、一成っぽく生きてきた。

 

 

名前の力は強い。

 

言葉の力は強い。

 

 

でもその話とは逆説的だけど、ぼくは言われると好きな言葉がある。

 

 

ねえ。

 

 

ねえ。という言葉からはじまって何気なく連鎖するLINE。ねえ。と呼ばれて、まったくぼくのこととは気づかずに、「君のことだよ」なんて言われてはじまる恋があってもいいかも。

 

 

そのよそよそしさと、適度な距離感。でも確実に距離のある相手には言えない親しみをもちあわせた素敵な言葉だと思ってる。

 

 

ちゃんと名前を覚えてほしい。ぼくがぼくである限り。でも10回に1回くらいはこんな雑さでぼくのことを呼んでほしい。

 

 

ねえ。